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2013 年07 月13 日

死刑制度是か非か

昨夜は、依頼者の方々との暑気払いの楽しい一夜であった。
その際、話題が死刑制度論になった。
私自身は死刑制度反対だ。しかし、自分の最愛の身内を殺害された遺族の方に死刑反対と言えるのか、自分自身がそういう立場に立たされてもそういえるのか、そういう犯人は処罰されるべきではないか。一人からそう反論された。暑気払いの場も死刑制度存否で議論が沸いた。議論が錯綜混乱した場面もあった。

帰ってから考えた。この問題は、個人の感情の問題と、人の生き方の問題と、国の制度の問題とを区別して考えるべきだろう。
  個人の感情の問題としては、そんな犯人は許せない。当然死をもってその罪は償われるべきだ。もっとも、犯人が死刑で処刑されたからといって、殺害された者が帰ってくるわけではないが、少しは悔しさは癒される。
  人の生き方の問題としては、身内を殺害した者が罰を受けるのは人の命を奪ったからだ。人を殺害してはならない規範に反して人の命を奪ったからだ。だとすれば、そのような犯人の命をも人は奪うべきではない。死をもって死を償わせるのは怨嗟の連鎖を生むだけだ。戦争が戦争を生むように。それに、人はいずれ死ぬ。その原因がその人の寿命であったり、自然にあるときは死をやむを得ないと受け入れるのに、その原因が他人にあるときだけその他人を恨み命を奪うことに懸命になる。死を受け入れられないから、誰かの責任を追及することで死を受け入れることを避けようとしているだけではないか。
  そして、最後に、犯罪者をどのように処罰すべきかは、国の制度、政策の問題だ。国がその刑罰権を行使するのは社会秩序を維持するためだ。社会秩序を維持するために、その社会においてどのような刑罰を科するのが最も適切か。そのときに、個人の感情に依拠して死刑を選択するか、それとも、あるべき人の社会・倫理に依拠して他人の命を奪った者に対しても死刑を科さずに、生かして・社会から隔離して・更生させるか、それとも第三の観点を盛り込むかは、その国の国民が決めることだ。

このように死刑制度が根本的には国家の刑罰権行使に関わる法制度の問題であって、死刑制度是か非かは、国家制度としての論ずるべきであり、当事者・一国民として犯人に対してどういう感情を持つか、あるいは人として犯罪にどう向き合うかという次元の問題として論じるべきではない。国は死刑制度を維持するために、またマスコミは視聴率をアップさせるために、あえて議論を個人レベルの問題にひきつけがちだが、そのような議論は議論を錯綜させるものにしかすぎないことに注意すべきだ。

投稿者:ゆかわat 17 :37| ビジネス | コメント(0 )

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